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めぐりめぐって!!講演会「新島八重」

めぐりめぐって!!講演会
「新島八重」


 キリスト教文化センターによる「Doshisha Spirit Week 2011 秋」の一環として、11月1日に至誠館22番教室で、本井康博神学部教授による講演会「新島八重」が行われた。①会津時代②京都時代③新島襄死後という3つの時代に分けて八重の生い立ちについて話された。大河ドラマ「八重の桜」では、東北を元気づけたいという趣旨から、①に最も多くスポットライトが当たると予想される。

 新島八重(旧姓・山本)は1845年に会津の地で生まれた。会津戦争(戊辰戦争)では、戦死した弟の三郎を名乗って彼の衣装を身にまとい、薩長軍と勇敢に戦った。その姿から、「会津のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

 この時代に八重は、川崎尚之助と結婚する。尚之助は江戸で八重の兄・覚馬に見込まれて、会津で教師をしていた。しかし戊辰戦争の敗戦をきっかけに、八重は他藩出身の尚之助とは、離婚を余儀なくされる。彼に関する資料は、極端に少ないが、NHKは最初の夫も丁寧に描きたいという。ドラマでの活躍が期待される人物のひとりだろう。

 戊辰戦争後、八重は京都府顧問(知事のブレーン)となっていた覚馬を頼って、京都に移る。覚馬が作った「女工場」という日本初の女学校で、八重を教師として抜擢された。「初代キャリア・ウーマン」誕生の瞬間だ。

 その八重が、アメリカ帰りの新島と京都の地で出会い、再婚する。八重は覚馬の影響もあり、キリスト教に興味を示した。クリスチャン以外の者とは結婚を考えていない襄にとって、八重は当時の京都で結婚可能な唯一人の女性であった。八重は結婚式前日に洗礼を受けて、晴れてクリスチャンとなった。京都初のプロテスタントの洗礼式である。襄は勇気ある決断を下す八重を「ハンサム・ウーマン」と呼んだ。見た目よりも心を重視する生き方、つまり「ハンサムに生きる人」と見たからだ。

 襄の死後、八重は日清・日露戦争において、篤志看護師として傷病兵の看護に当った。このボランティア活動に対しては、政府から宝冠章が与えられた。八重がときに「日本のナイチンゲール」と呼ばれる所以だ。また、八重は新島宗竹という名で茶道界(特に裏千家)においても有名人となった。江戸時代まで男性中心であった茶道を現在のように女性層に広めたことは、茶道史上、大きな功労であると評価されている。

 戊辰戦争で父や弟を失い、自からも鶴ケ城で籠城戦を戦った八重。結婚後は、生徒や世間から悪妻と罵られたりもした。けれども、八重は自らの生き方をあくまでも貫いた。彼女の力強い生き方が東北、ひいては日本中を元気にすることを期待したい。
【上條久美子】
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